LOGIN引き伸ばした弓に肩口を近づけると、外側の音は一切遮断された。内にある鼓動と自らの息遣いだけを感じる。
もっとも、古塚《こづか》美月《みつき》は集中していた。全ての音は蚊帳の外にあり、視界に入っているのは28m先にある一尺二寸の霞的《かすみまと》のみ。矢尻は自然と的の中央、中白《なかじろ》を指していた。
外野の声がこれだけうるさいと、誰であれ少なからず動揺するものだ。美月も同様にこんななかではまともに矢など射ることができないと内心感じていた。しかし、長年に渡る鍛錬の末、弓を構える動作に入ると周りの音は消えてなくなる。ただただいつものように、穏やかな川面を眺めているような心地で気が付けば矢を引いていた。
瞬きをする間に矢は吸い込まれるように的に中《あた》った。川が増水するように、急速に感覚が戻ってくる。薄っすらと額に滲《にじ》む汗に、弓の重み、頬を撫《な》でるそよ風。そして、拍手と飛び交う歓声に柔らかい太陽の日差し。
感覚の渦に呑み込まれないように深く息をすると、弓を降ろし開いていた足を閉じる。一礼をして後ろへと下がった。
美月が背を向けて弓道場の奥へと戻っていくと同時に、他の射手の矢が小気味よく命中していく音が聞こえる。その音はしかし弓道場の外に集まった見学者から聞こえるざわめきによってだんだんとかき消されていってしまった。
(見学者? 違う。ただの野次馬みたいなもの。本当に目障りで耳障り)
美月は所定の位置で正座すると、誰にも気づかれないようにそっと息を吐いた。
「見学者は静かにしなさい! お前ら、あまりにも目に余るようなら出禁にするからな!」
弓道部顧問の二俣《にまた》が、大きなお腹を揺らしながら声を上げた。「はーい」と気のない返事がかえってきたが、誰も本気にはしていないだろうと、美月は思っていた。いくら勇ましい声を出そうとも、たるんだあごにずれ落ちた眼鏡の社会科教師では威圧感が足りない。
それに、生徒たちの一部では二俣は「おじいちゃんみたいでかわいい」と評判だった。つまりは、柔和とも言えるその顔は、弓道部員から人気が出るくらい「優しい」のだ。
少し静かになった見学者がちらちらと窺うような目で美月を見てくる。美月は気にしない振りをして引き続いて弓を引く射手の動作を見ていた。
弓を引く動作の基本であり全てでもある射法。これがいかに自然で整っているかが、弓においては大事であった。
矢束を中心に外八文字に足を開く「足踏み」、弓を膝の上に置く「胴造り」、そこから弓を構える「弓構え」、「打起し」、「引分け」、「会」で弓を引き絞り、「離れ」で射る。最後は「残心」と言って、矢を射った動作のまましばらく保つ。
基本は誰も同じ。だが、自分の体をコントロールするというのは案外に難しい。こうして観察をしていると、それぞれの癖というものがよくわかる。
美月は、再び弓矢を手にして立ち上がった。射手の順番が回ってきたのだ。今日の練習の最後の一射。心を落ち着けて臨みたかった。
しかし──。
「次、美月ちゃんの番じゃね?」「おっしゃ! 待ってました!」
またうるさい声が上がり、ふざけた拍手が起こる。反応したらますますひどくなることを知っていたので、美月はまた無視を決め込んで射位へ向かった。
二俣先生が場を静かにしようとするが、餌を前にした動物のように落ち着く気配はなかった。
「……あんまり調子に乗らないで」
前の射手がすれ違いざまにそう言った。ひとり言のような小さな声だったが、侮蔑を含んだその言葉は野次馬ではなく自分に言われていた。
自信満々に手を上げる乃愛に、ストローを指で触る美月。数秒、二人の間に沈黙が流れた。「……いや、無理でしょ」「無理じゃない! このお呪《まじな》いならすぐにできる!」「いや、そういうことじゃなくて――」 乃愛のスマホの画面が美月にも見える位置に置かれた。「ほら、見てこれ。今、SNSで密かに広がっているんだけど」「いや、だから、そういう問題じゃなくて――」「実際に試した人がいるんだって。それでね、そのお呪いが」 美月は、額をおさえてため息を吐いた。何かに夢中になってしまうと誰の声も届かないことを美月は長い年月で身に染みるほど知っていた。(こうなったら、とりあえず話が終わるまで聞くしかない) 机の上で頬杖をつくと、美月はとりあえずスマホの画面を見つめた。誰かのアイコンと文字の羅列が延々と続いている。ただ、乃愛のふっくらとした指先でスクロールされていく文章には、一つの共通点があった。「永久《とわ》に先《さき》君《きみ》をば待《ま》たん暗闇《くらやみ》に花《はな》の塵《ちり》ゆく定《さだ》めとしても」「すごい! みーちゃん、よく読めるね」「うん、まあ……なんとなくだけど、そんなに難しい言葉じゃないから」 それは、短歌だった。五・七・五・七・七の計三十一音で組み合わされる日本の伝統的な詩。その短歌が、どの投稿者の文章にも綴られている。「これがね。お呪いなんだよ。お呪いの名前は、『白《しろ》無垢《むく》の恋唄《こいうた》』」(白無垢の恋唄?)
少し丸くなった氷をストローでくるくるとかき回し、美月はアイスコーヒーを啜った。春休みとはいえ、世間はただの平日。いつもなら制服姿で埋まっているカフェの店内も、今日は閑散としていた。(……一人になると何するかわからないのは、乃愛の方だと思うんだけどなぁ) 美月が乃愛とどんな風に出会ったのかはもう記憶にはなかった。ただ、どういうきっかけでこうなったかは覚えている。それは、保育園での散歩中に急に乃愛がいなくなったことだった。 保育士が血相を変えて名前を呼びながら探し回っている間に、美月は乃愛がいそうなところを探し、そして何分もしないうちに見つけた。 覚えたばかりであろう数の数え方を確かめるために、蟻の巣から出てきた蟻を数えていた。まだまともに数を数えられるわけでも、蟻も数えやすいように列になって直進してくれるわけでもない。乃愛は何度も何度も指折り数えては、途中からわからなくなり、また最初から数え直していた。 その後、保育士は乃愛のことを注意が必要な園児と見なしたのか、なぜか毎回の散歩で乃愛の隣に美月。さらに必ず手をつないで散歩をすることになった。 ──今のように。 とととと、と足音が近寄ってくる。「ごめん、ごめん。時間かかっちゃった!」 乃愛は席に着くと、ピンク色でキャラクターのイラストが描かれたスマホを机の上に置いて続きを話し始めた。「それで、二俣先生は何とかしてくれそう?」 美月はストローから口を離すと、首を横に振った。「あの先生、いい先生だけど、怖くないからね。一応、他の先生にも言ってみるとは言ってくれてたけど……」「でもさぁ、ちょおっと対応が鈍《にぶ》ちゃんだよね~みーちゃんが入部したの5月くらいでしょ? 今、もう年をまたいで3月だよ? えっと、6、7……」「10カ月くらいだ。もうすぐ11カ月ってとこ」 指折り数えて確かめようとする乃愛に微笑みながら、美月は言った。「そうそう10カ月。みーちゃんの、まあ、ファン? の男子はさぁ、入部してすぐに増えていったわけじゃん。弓道部の練習は基本、平日は毎日あるわけで、その間ずっと弓道場の見学に来たり、それだけじゃなくて私たちのクラスにも押しかけてきたり、後をつけてきたり、盗撮──」 美月は人差し指を上げた。「それはされてない。その前に、さすがに問題になってつきまとい行為はなくなったよ。
昔から美月は、冷たい対応──無視されることに慣れていた。他の部員のように気軽におしゃべりをすることも、部活動のあとどこかへ遊びに行くことも、SNSやメッセージアプリでやり取りするなんてこともなかった。 それでも中学生のときから弓道を続けているのは、別に特段弓道が好きだからではない。いざというとき自分の身を守れるよう運動神経を鍛えておく必要があったからだ。それは自分の思いというよりは、自身の「兄」からの希望だった。 弓道着から制服へと着替えを済ませると、美月は髪を結っていた赤いヘアゴムをほどいた。一度も染めたことのないつややかな黒髪が背中まで流れる。小さめのグレーのポーチからくしを取り出すと、ロッカーに付属している小さな鏡で乱れた髪をすく。 美月は急に更衣室が静かになったことに気づいて、手を止めた。なんとなく重い空気が肩にのしかかり、「ああ、これは……」と心を固める。「古塚さんさ」「……はい」 左手で髪の毛を触ったまま、3年生の先輩、加護《かご》の方へ顔を向けた。半笑いの表情から何が言われるのかはだいたい予想がつく。「今日も男子、いっぱい来てたよね」「……はい」「そうやって、迷惑だって顔してるけどさ、本当は内心喜んでるんじゃない?」「……」 返事はしない。こういうときは何を言っても悪い方にしか受け取られないことをこれまでの経験で何度も美月は学んでいた。 少し緩いパーマをかけた加護の隣の2人は、腕を組んでわざとらしくため息を吐いた。「清楚なふりして、本当はあいつらと仲良くヤってんじゃないの? あんたのせいでみんな迷惑してるのわかってる? お嬢様気取りかなんか知らないけど、あんま調子に乗ってんじゃねぇーよ」(……うるさい) 「調子に乗るな」「迷惑なんだよ」「気取ってる」──幼い頃から飽きるほど言われてきた言葉だ。昔はムキになったり、怒ったり、泣いてしまったこともあったが、今の美月はもう諦めていた。 どうしたって、変わらない。何をしても変わらない。だから美月は何も言わず深く頭を下げると、荷物を持ってすぐに更衣室から出ていった。「だいじょーぶ? みーちゃん、顔、怖いよ?」 外に出た途端に後ろから話し掛けられて、美月は目を丸くした。 声を掛けてきたのは、如月《きさらぎ》乃愛《のあ》だった。黒髪でストレートの美月とは違い、茶色に染めたボブ
平常心を装っていた美月の心音が、大きく跳ねた。(──うるさい。うるさい。うるさい) 美月は、弓を携えた。深く息を吸って心を落ち着かせようと試みる。いつもなら集中できるはずなのにすれ違いざまに言われた言葉に引きずられて、弓に集中できない。 足を開き、弓を構える。弦《つる》に矢をあてがって引き絞る。そ動作の一つ一つの間に、美月の頭の中を駆け巡ったのは、過去幾度となく聞かされてきた同じような侮蔑の言葉だった。「調子に乗るな」「男にこびてる」「男目当てなんでしょ?」 それらの呪詛のような言葉を否定するように、美月は矢を放った。瞬間。結果は見えていた。 軌道は全くデタラメに飛び、的を大きく外れた。拍手も歓声もなく、皮肉にも望んでいた静寂に包まれる。 美月は、礼をすることも忘れるとうつむいたまま早足で弓道場を出ていった。 蛇口を思いきり開ける。勢いよく吹き出た水が顔にかかった。冷たい感触が汗ばんだ肌には心地よかった。 美月は流れる水を手のひらですくうと、何度か顔を洗った。蛇口を閉めると目の前に現れたのは白いタオルだ。「はい、使って」 穏やかな二俣《にまた》の声だった。最後の行射《ぎょうしゃ》が乱れてしまったから、情けなさはあったが美月は素直にタオルを受け取り顔を拭いた。「ありがとうございます」 振り返って頭を下げると、改めて顔を見る。眼鏡の奥に見える細い目は気にしてないとでも言いたげに、微笑んでいるように見えた。「タオルもらっておくよ」「いえ、いいです。部の物なのでこっちで洗って返します」「……そうか」「はい。本当にありがとうございます」 美月はまた軽く頭を下げると、更衣室に向かおうと足を向けた。「あ、ちょっと、古塚さん」「はい、なんでしょうか?」「あまり気にしないでね。あいつら、最近あまりに度が過ぎるから、ちょっと生徒指導の先生とか、他の先生にも相談してみるよ」 二俣はいかにも深刻そうに眉をひそませると小声でそう言った。あいつら、というのはあくまでも野次馬の男子生徒達のことだろう。すれ違いざまに呟かれた部員の言葉は聞かれていなかったに違いない。「私は気にしていません。ですが、部の全体に迷惑がかかることだと思うので、よろしくお願いします。では」「あっ、古塚さ──」「すみません、失礼します」 まだ何か話そうとする二俣の言葉を
引き伸ばした弓に肩口を近づけると、外側の音は一切遮断された。内にある鼓動と自らの息遣いだけを感じる。 もっとも、古塚《こづか》美月《みつき》は集中していた。全ての音は蚊帳の外にあり、視界に入っているのは28m先にある一尺二寸の霞的《かすみまと》のみ。矢尻は自然と的の中央、中白《なかじろ》を指していた。 外野の声がこれだけうるさいと、誰であれ少なからず動揺するものだ。美月も同様にこんななかではまともに矢など射ることができないと内心感じていた。しかし、長年に渡る鍛錬の末、弓を構える動作に入ると周りの音は消えてなくなる。ただただいつものように、穏やかな川面を眺めているような心地で気が付けば矢を引いていた。 瞬きをする間に矢は吸い込まれるように的に中《あた》った。川が増水するように、急速に感覚が戻ってくる。薄っすらと額に滲《にじ》む汗に、弓の重み、頬を撫《な》でるそよ風。そして、拍手と飛び交う歓声に柔らかい太陽の日差し。 感覚の渦に呑み込まれないように深く息をすると、弓を降ろし開いていた足を閉じる。一礼をして後ろへと下がった。 美月が背を向けて弓道場の奥へと戻っていくと同時に、他の射手の矢が小気味よく命中していく音が聞こえる。その音はしかし弓道場の外に集まった見学者から聞こえるざわめきによってだんだんとかき消されていってしまった。(見学者? 違う。ただの野次馬みたいなもの。本当に目障りで耳障り) 美月は所定の位置で正座すると、誰にも気づかれないようにそっと息を吐いた。「見学者は静かにしなさい! お前ら、あまりにも目に余るようなら出禁にするからな!」 弓道部顧問の二俣《にまた》が、大きなお腹を揺らしながら声を上げた。「はーい」と気のない返事がかえってきたが、誰も本気にはしていないだろうと、美月は思っていた。いくら勇ましい声を出そうとも、たるんだあごにずれ落ちた眼鏡の社会科教師では
夜闇と言ってもあまりにも深い暗闇の中だった。行燈《あんどん》の光はおろか、火皿すらない。明滅する星々の明かりも照らす月の光さえも何もかもが一切存在しない常闇が辺り一面を支配していた。 感じられるものと言えば、どこかから漂ってくる生温い風に鼻孔を覆わんとするばかりの強い腐臭、それに混じり時折微かに漂う錆びた鉄の臭いだけだった。──いや、そしてもう一つ間隔を置いて垂れる何かの音。 真の暗闇の中では感覚は狂うばかり。何秒、何分、何時間──どれだけ時間が経ったのか、指の先さえ見えない真っ暗闇の中で時間の感覚はとうに忘れられている。果たして瞼《まぶた》が開いているのか、それとも閉じているのかすらわからない永久の牢獄。外界から切り取られたような異界の中で、女はひたすらに、ただひたすらに没頭していた。 女。確かに女だと言えた。汗と脂に湧いてくる蟲の死骸がこびりついた髪の毛は顔を覆い尽くすほどで、泥と血に塗《まみ》れた肌には隙間がないほどに蟲が群がっていた。ただ唯一、羽織る衣服だけは穢れとは無縁で、生を押し潰そうとするほどの暗闇の中でも眩いほどの白い光沢を纏っていた。 女は、何も発しなかった。言葉だけではなく声すらも。ただひたすらに頭《こうべ》を垂れ正座をし、微動だに一つしなかった。何も発しないその代わりに一念、また一念、と。ひたすらに願う。 どこかから何かが垂れ落ちる音が聞こえる。水溜りに一粒の雨が落ちるようなその音がした瞬間。すかさず女の指が動いた。蟲のように俊敏に、蟲のように異形に。指は暗闇の中をなぞり、何度も何度も擦り付ける。 女の指先はすでに失われていた。爪はそれがあった第一関節ごとごっそりとなくなり、中身が剥き出しのまま。そして、何度も何度も擦り付ける。 やがてまた女は動きを止める。痙攣が止まったかのように再び正座をし、闇の中で頭を垂れる。 女はひたすらに願っていた。願いを認《したた》めていた。言葉すらも声すらも吸収